Rumiture製品使用者インタビュー企画 GrindeRs #9 Takayuki Shibata

「一生メディカルトレーナーを続けたい」お金のためではなく”好きだから”その想いでトレーナーを続ける柴田さん

Rumiture製品使用者インタビュー企画”GrindeRs”

自分の目標を達成するために日々努力(Grind)し続けている人々=GrindeRs。

彼ら/彼女らが自分の胸の中に秘めた感情や物語はあれど、第三者が知る機会はなかなか無い。

この記事を通してGrindeRsのストーリーを知って頂き、共感や感銘が読者のGrindする力になれば幸いです。


Rumiture製品使用者インタビュー企画第9弾はあえてスポットトレーナーという立場でチームと関わる柴田さんです。圧倒的な行動力で海外のチームにも飛び込んで行った柴田さんは様々な経験の末にトレーナー界では珍しい自分なりのチームとの関わりかたを見つけたそうです。破天荒な海外生活や、柴田さん独特の考え方を伺いました。


ー所属とお名前を教えてください

柴田崇志です1992年7月10日生まれです。

柔道整復師なのですが、今年からメインの仕事っていうのがラグビーチームの通訳になりました。

ただ2014年に資格をとって以来ずっとメディカルとして契約してもらってるのがリコージャパンっていうチームで、今まで海外の行き来もあるのですが日本で活動している間はずっとそこでメディカルさせてもらっています。



ーどのような経緯でトレーナーになりましたか

父親が同じ柔道整復師で整骨院をしていて、小学校の時から漠然と憧れがありました。よく聞く父親の背中を見て、みたいな感じです笑。僕自身は空手と柔道をやっていて、空手をやってる時にはちょこちょこした怪我がやっぱりあるんですけど、その時に父親にずっと診てもらってて、スポーツと携われる仕事っていいなっていうのが小学校ぐらいからずっとあって、高校を卒業して柔道整復学科がある専門学校に入りました。卒業後の2014年から18年までリコージャパンにいたのですが、それもスポットトレーナーで、週末だけとかっていう形なんで、18年に仕事を辞めて、当時他のチームもあったんですけど、一旦契約解約してもらって、カナダに1年間留学に行きました。



ーRumitureのトレーナーバッグとはどのように出会いましたか

トレーナー仲間が持っているのをみてこれいいな!と思って買いました。それまではアウトレットのワゴンセールで置いてあったウエストポーチを1000円で買って10年間使ってたんです。ただ懸念点として防水機能がなかったので雨の日は大変でした。他社の製品で検討した事もあったのですが値段が高いなと。でも後輩が、Rumitureのバッグは防水機能あってコスパも良いですよって教えてくれて、デザインも僕は黒白とか好きなので購入を決めました。

実際使ってみて、大雨の日も中身が全然濡れなくて助かりました。


ーカナダにはどのような制度で渡りましたか

Co-op VISAという留学にワーホリがくっついている留学制度でカナダに渡り、最初はストレングスコーチ系の学校に通いました。

あまり調べもせずに、ただ漠然と知り合いに何かずっとメディカルやってきたけど海外でチームに属するってなった時にフィジオっていう資格の壁が高いと聞いて、トレーニングから入ってメディカルもできるよ、ってなった方がチームに入りやすいんじゃないかなと思って、まずはトレーニングを勉強しに行きました。



ー見事ウィスラーのラグビーチームに入られたとのことですが、どのようにチームに入っていきましたか

まずウィスラーのCSBA(Canadian Sports Business Academy)という学校に入ったのですが、英語ももちろん勉強できると思っていたところ、僕もちゃんと調べなかったのが悪かったんですけど、生徒が純日本人ばっかりだったんですよ。常勤の先生も日本人で、生徒も100%日本人やって、これ英語を伸ばされへんなと思って。

英語環境をせっかくだから作りたいなってなった時に、学校を一旦やめようかと思ってたのですが、メディカル活動が頭を離れなくて、やっぱりラグビーチームでやろうと思ってチームを探そうって思ったんですよね。授業でフィットネスジムに行くんですけど、そこのジムでやっぱりラグビーの服とかラグビーの帽子かぶってる人がいるんですよ。もうそういう人たちに、片っ端から声をかけました。

どこでラグビーやってるんだとか、この辺にラグビーチームないか、みたいな感じで。でも当時英語がびっくりするぐらい喋れなくて特に相手が言ってることが分からないっていう感じでしたがとにかく話しかけまくりました。多分2,30人は声をかけて、その中の一人のアレックスという選手が「ちょうど明日そこの目の前の学校で試合あるよ」って言ってくれて、じゃあ行くわ、とその時は素性を明かさずに行ったんですけど、現場でテーピング巻けるから必要だったら言ってと伝えたら6人くらいテーピング巻かせてもらえて、試合終わってみんなで飲みながら、次週スコーミッシュってちょっと1時間ぐらい南下したところの試合もまた来てよ、ってなってそれでオファーもらったって感じです。そこからシーズンをずっとフルで見させてもらいました。



ープロ契約という形でしょうか

アックスメンというチームで今はめっちゃ大きくなってるんですけど、当時はチームが全然大きくなかったんで、お給料という形では出されへんけどお金はかけさせないよ、という感じでした。移動とかでチームの誰かがピックアップしてくれたりとか、その辺のアフターマッチファンクションって言ってみんなで飲むんですけど、その時のみんながご馳走してくれました。

当時は30人おるかおらんかぐらいだったんですけど、今はもうディビジョン1、2、3までチームがあって、ジュニアチーム、女子チームも作れるようになってきて、すごく大きくなっていて嬉しいんですけど、いまだに連絡くれるんでそれもまた嬉しいです。



ー話は戻りますが、そもそもカナダに行こうと思われた理由はなんでしょうか

別にカナダにこだわってたわけではなくて、元々ニュージーランドに行きたかったんですけど、21歳で資格取って一応3年間の仕事をするっていう話で、母校の整骨院で働いていたんですけど、もう1年居て欲しいってなって、4年になって2018年になったんですけど、ニュージーランド行きたいっていうのもすごい漠然やって。別に行動に移してたわけじゃなかったんで、バイトも特にないし、何もない状態で知り合いの先生に海外へ行きたいんですみたいな話をしてたら、その先生がCSBAの卒業生やって、ニュージーランドじゃないけど、カナダにこういう学校あるよっていう話を紹介してもらって行った感じです。

最初は5歳の時に家族旅行でニュージーランドに行って、その時の記憶がすごい残っていて、そこから海外には興味をもっていました。



ーカナダから帰国して、少し時間をあけてからニュージーランドに行かれたようですがそれはどういった経緯でしょうか

カナダで本当は2年滞在できたんですけど、何かやっぱカナダじゃないなっていうモヤモヤした感じがあって1年しか滞在しませんでした。カナダ滞在中に学校自体が1ヶ月休みになったんですけど、その期間にニュージーランドに行ってそこでUNDER11なんですけど、州代表のチームでメディカルさせてもらえることになったんです。これはすごくラッキーでリコージャパンでコーチしてくださってた方の友人の息子がそこに選ばれてて、たまたま僕が行く2週間の間に10日間のトーナメントがあるっていう奇跡でした。

その滞在中に、改めて自分はニュージーランドに行きたいと思いました。それで後ほど30歳の時に1年間ワーホリでニュージーランドに行きました。



ーニュージーランドでもラグビーチームに所属していましたか

所属まで言っていいのかどうかわからないですけど、タカプナというチームでサポートはさせてもらってました。ここには僕が日本でメディカルやってた時の選手が先に来ていて、監督が来たからちょっと挨拶してきますって僕に言ってたんで、俺も挨拶だけしたいって言って、挨拶がてら日本でフィジオやっていたので見学させてください、とお願いしたらOKが出ました。

そうしたら試合前テーピング待ってる人が多くててんやわんやだったので、もし必要だったらサポートするよと伝えたら、じゃあ試しで一回巻いてあげてと言われたので巻いて、それが結構気に入ってもらえてその日からサポートしてたって感じです。


ラグビーシーズン自体が半年ぐらいなのでその後はポンソンビーというところの女子チームも行きました。そのチームは決勝戦からサポートしたので1試合しか入ってないんですけど、チームに元々日本人の女子が二人所属してるって聞いて、とりあえず行って通りすがりの人に「日本人居ると思うんやけど、ちょっと呼んでもらって良い?」って言って呼ばれた彼女たちも「え、、誰ですか?」みたいになりました(笑)素性を話して、フィジオの方に一言声かけさせてほしいって言って、以前と同じような感じでその流れでテーピングを任せてもらって選手がすごく気に入ってくれて、1試合だけですけどそこでサポートさせてもらいました。

今は通訳の仕事をラグビーリーグワンのチームでやらせてもらっているのでこれを頑張りたいですけど、ゆくゆくはまたニュージーランドに行きたいと考えています。


ーRE:BONEというブランドも立ち上げられているのですね(https://www.instagram.com/rebone.jp?utm_source=ig_web_button_share_sheet&igsh=ZDNlZDc0MzIxNw==)

2020年ニュージーランドから帰ってきた時なのですが、出張整体をやっていた時に名前があったら良いなと思って作りました。アパレル化したのは、自分がその活動する時のユニフォームを作ってやってたら、その服どこで売ってるのかっていうのが何人かいたので、じゃあ作るか、って流れでできました。



ースポットトレーナーとして働くことにこだわりがあるということですが、どうしてでしょうか

トレーナーって一言で言うと、多分9割の人がチームにずっと帯同しているチームトレーナーをイメージすると思うんです。でもトレーナーの在り方って、スポットトレーナー、チームトレーナー、あと大会の日だけ呼ばれる救護とか、またはクリニックとか病院とかで働かれてる方がいると思うんですけど、僕は割とスポットがしっくりくるんですよ。チームに所属して、平日も週末もずっとチームでチームから年俸を頂いてっていう形をやったことないっていうのもあるので、それが悪いとかじゃ全然ないんですけどしっくり来なくて。

スポットトレーナーっていうのは、どっちかというと浅い繋がりになるんですかね。普通にチームに所属してる人よりは試合の時だけとかになるんで、すごい関係性が浅くなるんですけど、でもその分自分がやりたいことが他にできるっていうところがあるんですよ。なので割と何か中途半端だったりとか、その程度かっていう感じで言われることはあります。

でも僕は、囚われるのがすごく嫌で柔道整復師の資格を取ったら整骨院で働かないといけないとか、病院で働くものだみたいなレールというか一般的な流れがあると思うんですけど、あくまでも資格を使える人間であって、資格に使われる人間にはなりたくないなっていうのが根本にあります。

僕の師匠にあたる方、専門学生時代に出会った人なんですけど、その人も学校教員しながらリコージャパンでトレーナーして、整骨院経営して、さらに漫才やってるんですよ。結構クレイジーな方で、でも日本って結構一つに絞らないといけないというか、一つに絞るのが美学みたいなところがあるじゃないですか。ちっちゃい時から一つのスポーツをやり続けるのがいいみたいな。でもカナダ行った時もすごい感じたんですけど、全然そんなことないし、このシーズンはアイスホッケーやって、アイスホッケーのシーズンが終わるまでサッカーやってとか、いろんなことをやるのが普通であって、全ての出来事は人生の一部でしかない、っていう感覚が僕は結構マッチしてて。でも日本でトレーナーと言ったらどこかに所属することが普通、みたいな枠組みがすごい苦手で。


僕がトレーナーをやってる中で楽しいのが最前線の現場、試合中のサポートなんです。怪我の処置、応急処置の能力が僕は自分の中の一番の強みなので、自分の興味がフィールドでサポートすることっていうところにすごく大きくあります。

もちろんその前後にケアしてほしいとかって言われればもちろんしますし、できないわけじゃないんですけど、それを好き好んでやりたいかと言われたら現場サポートほど興味は無いと正直思ってしまいます。なのでスポットトレーナーっていう形が一番僕がやりたいこととチームが求めることがマッチしてる形なので、僕はスポットトレーナーが好きです。



ー最前線で働く魅力というのはなんでしょうかー

成長するのに最適な場所。その一言に尽きます。限られた道具と限られた時間の中でどこまでの処置ができるのか?という自分との戦いができるのが最前線での活動の魅力だと思っています。もちろんその戦いに備えて準備はします。どんな怪我が起こりうるのか?その処置にはどんな道具が必要か?どうやって処置するか?

その上で現場で自分のできる最善を尽くし、そこで得た課題にまた取り組む。その繰り返しです。やっぱり最前線の現場でしか見れないものがあると思います。


僕が最前線での活動に興味を持ったのは、専門学校3年生の時に初めて連れて行ってもらった現場がラグビーの試合だったのですが、そこでは脱臼が2件ありました。

全く臆することなく、瞬時に整復する師匠の姿を初めて見て、「こんな人になりたい。」そう想ったのがトレーナーとしての僕の始まりでした。そこから整復や応急処置に興味を持つようになりました。



ー柴田さんのトレーナーとしての挫折を教えてください

カナダ時代なんですけど、ベースボールキャンプに野球未経験の中でサポートで入ってたんです。そこで一人の選手が遅れてきて、遠投のプログラムの途中からアップ無しで入って来たんですけど、3球目ぐらいにいきなり全然違う方向に投げて、全然力が入らなくなったと言って来たんです。今までの僕が勉強してきた中で、仮に折れてたとしたら、腕が上がらないとか押したら痛いとなるはずなんですけど、力入らないだけで上げてと言ったら上がるんですよ。大丈夫だと思うけど、一応病院行こうってなったらぽっくり折れてて、もうこれでもかというぐらい折れていて。資格取って4年で、学生時代を合わせたら7年ぐらい勉強してて、特にその骨折、脱臼というところにフォーカスして自分は勉強してたんで、4年間費やしてきて、こんなはっきりした骨折も分からないのか、もう自分は怪我をするリスクがある人と携わっててはいけない、って自分で思ってしまったんです。さっき言った通り、現場での応急処置が好きなんで、それをする資格なんかないんじゃないかって思って。もう怖くなった感じですね、人と接するのが。


その時に師匠に連絡してこういうことがあってさすがにこれはもう柔道整復師としてやっていたらダメな気がしますって伝えたんですけど、そこで師匠に言っていただいたのが、その辞める辞めないは別にどっちでもいい、この柔道整復師っていう仕事も人生の一部でしかないから、辞めても生きていけたらなんだっていいよと言ってもらって。別に止めるとかじゃなかったんですよ。その時は止めてくれるかなと思ってたんで、いや止めてくれよ!みたいな部分ちょっとあったんですけど(笑)

やりたいことを公言するとかって言うのは簡単だけど、やらないことを決めるって結構しんどいよっていう話になって、「一生人の身体に携わらない自分の未来は想像できるのか?」って言われたんです。その時に、今までは小学校からずっとスポーツが好きで、父親のおかげでスポーツに携わる仕事も見つけて、それを実現してきていて、今後一切アスリートたちと関わらない、スポーツとか関わらない、人の身体に関わらない人生仕事ができるのかって思った時に、その方が苦しくて。


当時うまいこといかなかったのも、僕の力量がわかる出来事だっただけで、それを経たから次はもういける。というか失敗してもやり続けるしかないし、うまいこといかなくてもやり続けるしか患者さんを助ける術はない、と言ってもらって、これは辞められない。と思って踏みとどまれました。絶妙なところで突っついてくるんです師匠は。



ー今後トレーナーとして成し遂げていきたいことは何ですか

一生メディカルトレーナーとして活動し続けたいです。こんなチームにつきたいとか、このレベルでやりたいとかっていう、そういうことじゃなくて、ただの趣味です。反感を買ってしまうんですけど本当に趣味なんです。例えばですけど、この世からお金がなくなる、もしくは一生お仕事しなくても働けるだけの経済的余裕がある、仕事をしなくていいってなったら何する?って言われた時に、即答でスポーツトレーナーやったんですよ。

だからお金じゃない価値っていうのが、僕の中ではメディカルトレーナーにはすごいあって。なので一生続けられる仕組みを作りたいというのもあります。




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